三渓園(さんけいえん)は明治の生糸貿易の実業家 原三渓(はら さんけい)により私邸の庭園として築かれました。
門をくぐると100年以上前から変わらぬ景観、175,0000㎡(53,000坪)の非日常の世界が広がります。
広大な日本庭園には京都や鎌倉から移築された重要文化財建築物が配置され、四季折々の庭園の景観と見事に調和し「西の桂離宮、東の三渓園」と称される国の名勝です。
明治39年、三渓はこの庭園を一人で鑑賞するには勿体無いと「遊覧御随意」の看板を立てて一般市民に公開したのが、現在も横浜市民に愛される横浜三渓園の始まりとなります。
日本庭園『横浜 三溪園』の歴史について
横浜・本牧にある、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟を含む庭園です。
そのうちの1棟、三溪園 鶴翔閣(かくしょうかく)は、
1902年(明治35年)に建てられた290坪の住宅で、和の迎賓館とも呼ばれています。
当時の構造や間取りを復元し柱、ガラス戸やランプ等の趣のある雰囲気を残しつつ、バリアフリーの近代設備も兼ね備えております。
大規模な日本間や広大な前庭があるので、横浜で和の結婚式をする場合は最適な場所としても知られています。
100余年の時代を受け継いで
文化財邸宅で過ごす慶びの一日
明治35年に創建された、当時三渓の私邸だった鶴翔閣(かくしょうかく)。
600坪の敷地に建つ建物は上空から見た形が、まるで鶴が飛翔しているように見えるということから三渓自らが「鶴翔閣」と名付けたと言われています。
鶴翔閣には伊藤博文や大隈重信、吉田茂など歴代の総理大臣、芥川龍之介や夏目漱石などの文化人が数多く訪れたと言われています。
また三渓は実業家であると同時に、古美術の蒐集家という、もう一つの顔を持っていました。
横山大観や下村観山、前田青邨等、明治の画家たちが三渓の支援のもと、三渓の蒐集した美術品に触発され、庭園の風景をモチーフに創作活動を行ないました。
後世に残る名画を生み出した客間棟は鶴翔閣の中でもっとも格式高い部屋として有名で、「画家の部屋」とも呼ばれています。
一日一組様だけに許される祝宴の舞台で
新たな歴史を受け継ぐ
平成12年、鶴翔閣は横浜市指定文化財の指定を受け、綿密な地質調査のもと一部を除いて当時の木材などをそのまま用い、間取りも忠実に大規模な復原工事を行いました。
歴史をそのままに冷暖房など現代の設備を取り入れ、「国内外のVIPをもてなす和の迎賓館」として蘇りました。
横浜でアフリカ国際サミットやAPECが開催された折には各国のファーストレディをお招きしてお茶会が催され、
高円宮久子妃殿下の写真展の会場となるなど、皇室や国内外のVIPをおもてなしする和の迎賓館。
そんな格式高い「鶴翔閣」が一日一組様だけに貸し出され、お二人の祝宴の舞台となります。